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おじいちゃんLove!

 こさっぺはおじいちゃんが大好きである。

 おじいちゃんというのは、父方の祖父で、岡山に住んでいた、私のおじいちゃんだ。
 さいきんは老後を考えて(笑)、おばあちゃんと一緒に、うちの実家の近くに越してきた。

 そのおじいちゃんがボケてしまって、もうかなり弱っているらしい。

 そう聞いてはいたものの、家族関係の、嫁姑や介護の大変なところに、首をつっこむのがためらわれて、長くおじいちゃんに会いに行けずにいた。

 しかし、ひょんなことから、おじいちゃんの夢を見た。
 昔の大好きなおじいちゃんのままで、すぐ側にいてくれていたような、感覚の残る夢だった。
 目覚めたとき、ふと思った。
 このまま大阪で、何でもない生活を送って、何年も会わずにいたら、おじいちゃんは知らないうちに、いってしまうんじゃないか。
 あたしは大好きなおじいちゃんに、もう会えないんじゃないか。

 そんな恐怖におそわれて、
(これは会いに行かんといけん)←やや岡山弁
 と、夜闇の中飛び起きたまま、やたら決意があふれてきた。
 そんなわけで次の月、実家へ帰ったときに、おじいちゃんに会いにいったのだ。

      

 おじいちゃんは、かなりのイケメンである。
 あれほどイケてるメンズを、私はいまだかつて見たことがない。(今はボケているが)
 なんせ子供心に、はじめて母親以上に好きになった人が、おじいちゃんなのだ。

 おじいちゃんは、穏やかな人だった。
 ピアノやバイオリンを弾けるなど、どことなく品がある。
 昔、子供用のバイオリンを、わざわざ私に貸してくれたが、残念ながら私には楽器の才能がなかった。。が、そんな時もハハハ、と笑って、
「ええ、ええ」
 と、押しつけるでもなく、優しくおさめてくれた。
 子供心にも、教養と知恵と、なにより聡明な人格に魅了されていた。
 今から思えば、上人とか聖仙とかジェダイマスターというのは、まさしくこういう人のことをいうのではないか。
 とにかく、第一級の知識人であることには、間違いない。

 おじいちゃんは高校教師(社会科や、コンピューターのプログラミングの先生)だったが、おばあちゃんも銀行員(中国銀行)などで働いていたため、結構蓄財していたらしい。
 家はでっかくて豪華で、常にキレイでピカピカにしていた。なかなかのお金持ちっぷりである。
 まだ教習所がない時代に、警察署で免許をとっていて、カーナビ付きの6人乗りの車を持っていた。

 その車に乗せてもらった時、幼い私は初めて『カーナビ』というものを見たのだが、おじいちゃんは、
「これはアメリカ軍が戦争のために、衛星で日本の道路のデータを発信しとるのを、わしらがカーナビのデータとして受信しとるんじゃ」
 と教えてくれた。
 おじいちゃんの中で、まだ戦争の記憶が強いことを感じた。

 おじいちゃんは大学生の頃、“学徒出陣”で、第二次世界大戦に行った人だ。
 上手いこと上層部にもぐりこめた(父親が警察だったからか?)ことと、戦争も終盤にさしかかっていたため、生きて帰ってくることができた。
 一度、太平洋戦争で使った、日本軍の刀を持たせてもらう機会があったのだが、
 真剣は以外に短くて、かつ重くて、グリップは握りやすかった。
 まさしく、人斬り“包丁”という感触だった。
 日本軍の桜マークのかざりが、刀の随所にあって、たしかな歴史と、生き抜いてきた人の強い意志を感じた。

 そんな戦中を生きたおじいちゃんも、引退後は遠出の散歩やビデオ編集やクラシック音楽を趣味に、穏やかに暮らしていた。
 私も一緒に遊んでもらった時は、
 岡山の家の前にあった、深い緑の谷が広がる公園に、一緒にお散歩に連れていってもらったり、
 家族ぐるみで遊びに行った先で撮った映像を、ビデオ編集(タイトル、解説文字つき)したテープでもらったり、
 おじいちゃんの部屋で、クラシックCD全集の中から、気に入った曲をテープに録音してもらったりした。
 今考えると、遠出の散歩やビデオ編集やクラシック音楽も、全部今の私の趣味になっているから不思議だ。

 そして、私が大学生になるころからか、おじいちゃんは体調が衰えたと言うようになった。
 おじいちゃん(と私)は武家の家系で、祖先は敏達天皇という天皇までたどれるらしく、私が通いだした大阪芸大の近くに、その祖先の古墳があるからと、
「ほんまは一緒に見に行きたいんじゃけどなぁ、ちょっと体調が悪いんじゃ」
 と言っていた。
 その前までは、先祖ゆかりの地に、時には遠く長野県の方まで車をとばして、元気に調べにいっていたらしい。
 大学生になりたての私はまだ、先祖が武家や天皇なんて、まゆつばものだろうと思っていたから、大して強く共感して受け止めていなかった。
 後に、大学卒業間近になってから、大学の真横にあった敏達天皇の御陵に、卒業祈願(?)にいくなど、1人で敏達天皇時代あたりの、蘇我氏や聖徳太子なんかの歴史を調べることになる。
 その時、
(子供の頃、音楽と美術しかない学校に行きたいと思ったことがあったし、先祖の墓がこんなに近くにあるということは、これはもう大阪芸大に来ることは昔から決まってたんやな)
 と、しみじみ思ったりした。

   

 そんなこんなで、おじいちゃんに会おうと実家に帰ってきたところ、おじいちゃんはもはや、病院に入っていることが判明した。会いたいと言うと、家族には、
「おじいちゃん、もうあんたが誰かわからんで」
「行っても、どっかの他人のお姉さんやと思われるで」
 とさんざん言われたが、
(いや、いける)
 と、私には強い決意があった。
 おじいちゃんに会わなければいけないし、心が通じると信じて、万感をこめて話せば、何かが通じて、必ずわかってくれるはずだ。
 そう確信して、お母さん、おばあちゃんと共に車に乗り込んで、おじいちゃんのいる病院へ向かった。

 車椅子で出てきたおじいちゃんは、昔よりか細くなっていた。
 でも私は、話したかったことが溢れ、病院移動する車の中で、矢継ぎ早にハイテンションで話し出してしまった。
 おじいちゃんは、私のことを覚えていた。わかっていた。
 昔、CD全集をよくテープに録音してもらったことや、
 そのCD全集を私が子供の頃、
「わしがおらんくなったらこれ全部あげるわ」
 と約束してくれたこと……までは覚えていなかったが(笑)、その場でおばあちゃんの許可が出て、貰い受けることになった。
 あと最近になって、先祖の歴史を調べだしたことも理解してくれたし、
 本当はおじいちゃんと一緒に調べに行きたかったことや、初めてお母さんより好きになった人がおじいちゃんだと告白したら、とても喜んでくれた。
 やっぱり心をこめて話したら通じるんだ。わかってくれたことがうれしかった。

 その後、検査に入ったおじいちゃんは疲れてしまったらしく、朦朧として出てきたが、手足の血色が悪くなったおじいちゃんに、
「パンとお茶がたべたい」
 と言われて、駅前までパンを買いに走ったり、腫れて血色の悪くなった手を握りつづけたり、車椅子を押して車まで運んだりして、病院から出ている間、最後まで付き添うことができた。

 そうして、おばあちゃん家で念願のCD全集を棚ごともらって帰った後、私はふたたび、我が家に伝わる古文書を紐解いた。
 おじいちゃんも調べていた我が家の歴史を、一番くわしく知っているのは、おじいちゃんの弟にあたる人らしい。
 今も、岡山の本拠地で、旧家をかまえて暮らしているという。
 私はおばあちゃんにたのんで、その人に連絡してもらい、
「あの、お兄さんの孫ですけど、最近ウチの歴史に興味が出てきまして、教えてもらいたいんで、次の休みの日にお宅まで聞きにいってもいいですか? あ、もちろん墓参りもかねて……」
 と言うと、喜んで快諾してくれた。

 私は晴れて、我が本籍のある、おじいちゃん生誕の地へ、旅に出ることが決まった。

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